もくじ
仕事では「ちゃんとした人」に見られていたいから
私は、わりとちゃんとしている人に見えるように行動している方だと思う。
職場でもきちんとスケジュールを組んで部下に指導をし、全員に仕事を振って、会議では先陣を切って発言する。
別の部署とも連携しつつ、声掛けをして、話しやすい雰囲気づくりを心掛けている。
……でも、それはあくまで「気を張っている時」の話。
決して私の「素」ではない。
気を抜いたときに出る、私の「うっかり」
家に帰って気を抜くと、うっかり忘れてしまうことがある。
たとえば、洗濯物を回そうと思っていたのに、気づいたら夜になっていたり。
仕事帰りにスーパーに寄って卵と牛乳を買うつもりだったのに、まっすぐ帰ってきてしまったり。
ごはんを作ろうとしたら、おかずだけ作って炊飯ボタンを押し忘れていたり。
ひとり暮らしだったら「またやっちゃった…」と自己嫌悪に陥るようなことも、ぽんさんと暮らすようになってからは、ちょっと違う。
怒られない日常
たとえば、洗濯し忘れた日。
「ごめん、洗濯しようと思ってたのに、すっかり忘れてた」と言うと、
「今日の夜やろうか」「明日でもいいんじゃない」と、ぽんさんはふわっと返してくれる。
私が「ごめん、卵と牛乳買い忘れた!」と慌てて連絡すると、
「俺が行くからいいよ~」「ついでにアイスも買ってこうかな」とか言いながら、軽やかにスーパーに向かってくれる。
ある日は、野菜炒めを作っていて「あ! 米炊いてない!」と気づいた私に、
「じゃあいっそ焼きそばにしようか? 焼きうどんもいいね!」と、まるで新しいメニューにワクワクしてるみたいな反応を返してくれる。
私が「失敗した」「やらかした」と感じるような出来事も、ぽんさんの反応が優しくて、温かくて、ちょっと笑えるものに変わっていく。
だから、私は少しずつ、自分の「うっかり」や「失敗」に対して、そこまで悲観的になったり、自己嫌悪に陥ったりすることはなくなっていった。
「責めない」という優しさ
ぽんさん自身がADHDの診断を受けている。
彼自身、忘れ物やうっかりミスで困ることが多くて、「できて当たり前のことができない」ことに悩んできた人だ。
だからなのかもしれない。
私が失敗したとき、責めたり叱ったりしない。
きっと、自分がそうされてつらかったからこそ、私にはしないようにしてくれているのだと思う。
疲れがたまっていたある日、私が朝から何もせずに夕方まで爆睡してしまったことがある。
寝ぼけ眼でスマホの時間を見てびっくりして、「うわ、ごめん、寝すぎた!」と慌てて起きると、ぽんさんはのんびりコーヒーを飲みながら、「ゆっくり休めた? よかったね」と言ってくれた。
その言葉に、じんわり泣きそうになった。
「ちゃんとしなくていい場所」があるということ
仕事では「ちゃんとしなきゃ」が当たり前。
緊張感とプレッシャーの中で自分を律して動いている分、家では力を抜きたくなる。
そんなときに「まあ、いいじゃないか」と笑ってくれる人がいるのは、本当にありがたい。
ぽんさんとの時間は、私にとって「回復の時間」だ。
何かをしてくれるとか、全部手伝ってくれるとか、そういうのとはちょっと違う。
ただそこにいて、うっかりした私を否定しない。
それだけで、なんだかすごく救われる。
「できない」経験があるからこその共感
もちろん、ぽんさんも完璧な人じゃない。
忘れ物だって日常茶飯事だし、「昨日も言ったよね?」ってことを3回くらい確認しないと動かないこともある。
だけど、私のうっかりを受け止めてくれる人だから、私も自然とそうしようと思える。
完璧主義は疲れる。
自分にも他人にも、「完璧」を求めないからこそうまくいくこともある。
ADHDやASDが「ダメなもの」じゃなくなるとき
ADHDだから大変なこともあるけど、ADHDだからこそ、そしてASDやACの特性を併せ持つぽんさんだからこそ、人の痛みに敏感だ。
だからこそ私に優しくしてくれる部分もある。
そう思うと、私の好きなぽんさんはADHDやASD、ACあってこそなのだろう。
全部ひっくるめてぽんさんという人間だから、私は彼の特性をあまり気にしていないのかもしれない。
ぽんさんは自分がADHD、ASDであることに少し負い目を感じていたようだけど。
人との信頼関係は、互いへの思いやりと、理解しようと歩み寄る姿勢がある上で成り立つもの。
それはADHDやASDがなくても同じで、人と過ごす上で必須のものだと思う。
だけど私たちは、ADHDやASDを知った上で、一緒にいるために、互いによりよく過ごすための努力をすることができる。
だからこそ、今の生活って悪くないなって思える。