もくじ
平和な在宅勤務が、一瞬でホラーに変わるとき
……ん?
……え、なに、アレ??
カーテンの上に、黒っぽくて、長い足が生えてて、丸っこいものが張りついている。しかもちょっと動いている。
虫嫌い妻VS虫好き夫、そして沈黙の鬼丸
思わず「うわ!!」と声が出た。
私は虫が大の苦手だ。クモだろうがカナブンだろうが、ましてやGなんてもってのほか。種類なんてどうでもいい、とにかく全部「虫」というカテゴリに入れて全力で回避したい存在だ。
ちなみにぽんさんは生き物は全部好き。だから私が「虫が嫌い」というと少し不機嫌になる。
全部同じ生き物なのに虫だけを嫌って他の生き物を可愛がるのは違うんじゃない?と。言いたいことは分かる。でも苦手なものは苦手なんだ。
カーテンの奥はベランダで、ベランダには一応、「鬼丸」を吊るしてある。オニヤンマの模型で、虫よけグッズとしてドラッグストアにもよく置かれているアレだ。
けれど今日に限って、鬼丸はまったく役に立ってくれなかった。
気配を消してるのか?というくらい沈黙している。
まずは、敵の正体を遠隔で確認
とりあえず、やばそうなものがそこにいるのは間違いない。
でも見に行くなんて無理。
万が一にも、ベルがそれを捕まえてしまったら……
それが、たとえばカメムシで、あのくっさい液体でも浴びようものなら……
いや、絶対ムリ!!!
震える手で、まずは写真を撮る。ズームして、できるだけ近づかずに。
そして写真を添付して、ぽんさん(夫)にLINE。
「やばい。でかいクモみたいなのが部屋の中にいる」
返事はすぐに来た。
そうじゃない!!
『あー、クサギカメムシだなそりゃ』
そうじゃねえ。
私は「これは何か」を知りたかったんじゃない。
「これ、どうしよう」と言いたかったんだ。
「とにかく早く帰ってきて助けて」の気持ちを、写真一枚で察してほしかったんだ……!
さらにぽんさんからのLINE。
『窓開けたら出ていくかもだし、別に毒あるわけじゃないから大丈夫だよ』
……。
あのね。
そういうことじゃないんだよ。
ぽんさんの返事を読んだ瞬間、涙が出そうになった。
いや、涙というか、怒りと焦りと孤独感と、いろんな感情がぐるぐるして、うまく言葉にできなかった。
確かに、ぽんさんの言うことは間違ってない。カメムシは毒を持っていないし、物理的な危険があるわけじゃない。確かに窓を開けたら出ていくかもしれない。でも「私がどう感じているか」には、まったく触れていない。
「怖い」という感情を共有するのではなく、「大丈夫じゃん」と合理的な目線で返されると、「こっちの必死さ」がないがしろにされたような気持ちになる。
帰宅は「最速」でお願いします
ちなみにぽんさんはまだ仕事中。
「とにかく、帰ったら取って!」とお願いすると、あっさり「おけ」と返ってきた。
ああ、よかった。
でも……そこからが長い。
なんか、時間がものすごく遅く感じる。
仕事どころじゃない。何か物音が聞こえる度、黒っぽいものが視界に入るたびにドキッとしてしまう。
この状態であと何時間過ごせと?
ビビる飼い主と、動じない犬
恐る恐るベルを抱きかかえ、パソコンも持って、別の部屋に避難。
まるで災害時の非難みたいな動きで、座りなおした。
私の膝の上では、事態の深刻さなんて1ミリも気づいていないベルが、「ふぅ」と鼻を鳴らして丸くなる。
君の図太さ(いや、度胸?)がうらやましい。
でも、いつもと変わらずスヤスヤ寝ているその姿に、少しだけ癒やされる。
そうして1時間、2時間……。
ぽんさん、そろそろ帰るかな?と連絡してみたら、返事が来た。
ぽんさん、今その余裕はないのです
『今駅着いたからこれから帰るよー。
コンビニ寄って帰るけど、何かいる?』
は!?!?!?
ちがうちがうちがう!!!
コンビニ寄ってる場合じゃないでしょ!
今すぐ!!最速で!!帰ってきてカメムシをなんとかして!!!
――と叫びたい気持ちをぐっとこらえて、
「いらない。とにかく早く帰ってきて」とだけ送る。
既読はついた。でも「おけ」とは返ってこない。
うわーーーこれはもう、レジ並んでるな!?なんか買ってるな!?すぐ帰ってこないやつだーー!!
ベルはそんな私の焦りをよそに、ピクリともせず寝息を立てていた。
かわいい。けど、そうじゃないんだ。今は危機なんだ……!
もう少し、もう少し耐えればメシアが現れるはず…!メシアは今コンビニに寄ってるけども…!!
そしてようやく、ぽんさん帰宅。
私は「早く!早くして!!」と玄関で迎え撃つ。
ベルは「おかえり~」と尻尾ふりふり。
ぽんさんは慣れた手つきで、半分に切ったペットボトルを持って部屋の中へ。
ものの数十秒で、あの厄介なクサギカメムシをそっとキャッチし、外へ逃がしてくれた。
「はい、おしまい」
あっけない幕切れ
……え、もう?
私があんなに震え上がり、ベルを抱えて避難し、仕事どころじゃなかったこの3時間……。
なんだこの、
「エンディングロールが3秒で終わった映画」みたいな感覚は。
とはいえ、すべては解決。
私は安堵のあまり脱力して、膝の上で相変わらずスヤスヤしているベルの頭を撫でながら、「ありがとう」とぽんさんに伝えた。
ぽんさんも気にしていない様子で、いつもの晩ごはんタイムとなる。
すれ違いの中にも、ちゃんと“ありがとう”はある
すれ違いって、こんな小さなところにもある
ぽんさんの「虫の種類を答える」という反応。
私の「助けて!」というつもりで送った写真。
そこでのズレに、ちょっともどかしさを感じることがある。
ADHDの人とのやりとりでは、こういう「え、そういう話じゃないのに……!」がよくある。
相手は悪気がないし、むしろちゃんと対応してくれてる。
でも「今、私がほしいのはそれじゃなくて!」というズレが、ほんの少しのイライラや悲しさを生む。
今回もそうだった。
虫の名前はどうでもいい。
私は「やばいどうしよう助けて」だけだった。
でもぽんさんは、クサギカメムシという情報をくれた。
焦りと苛立ちの中で、「毒はない」という情報に少しホッとしたのは確か。
何より、帰ってからちゃんと虫を逃がしてくれた。
すれ違いはあったけど、結末はちゃんと「助けてくれた」だった。
平和に戻って
おかげで今日も、ベルは私の膝の上で、世界で一番平和な寝顔を見せてくれている。
だから、これは「カメムシ事件」ではなくて、私たちにとっては、「気持ちのすれ違いと、ちょっとだけの歩み寄り」の話なのだ。
でも、今とはなってはもう笑い話。
それにしても、虫はもう勘弁してほしい。
鬼丸、次こそはちゃんと仕事してね。