通りすがりのぶつかり事件
ぽんさんと私が一緒に駅前のアーケード街の道の端っこを歩いていた時のこと。
正面から、すごい勢いで歩いてくるおじさんがいた。ほとんど競歩。
すでに端にいたので戸惑いつつ、私はぽんさんの後ろへ下がって避けようとした。
でも間に合わず、思い切り肩からドンッとぶつかられてしまった。
「いってぇ、クソッ」と思わず口に出るくらいの衝撃。
いわゆる「ぶつかりおじさん」だ。
びっくりしたし、それからじわじわと腹が立ってきた。
何だあのおっさん。と。
でも、それ以上にショックを受けていたのはぽんさんだった。
ぽんさんは私の少し先を歩いていたから、私がぶつかられた瞬間を見ていなかった。
振り向いた時には私は少し後ろに吹き飛ばされるような形になっていて、おじさんはすでに無言でのしのしと歩き去っていた。
そのことが、ぽんさんにはものすごくショックだったらしい。
「なんであんなひどいことするんだろう」
「一緒にいたのに守れなかった」
と、かなりショックを受けていた。
あれから、ずっと手をつないでくれるようになった
ぽんさんはそれ以来、外を歩くとき、だいたい手をつないでくれるようになった。
「手をつないでいたら、何かあっても気づけたと思う」
「自分が盾になれたかもしれない」――そんなふうに考えていたらしい。
私としては、あれはたまたま運が悪かっただけで、当たり前だけどぽんさんが悪いわけでもなんでもない。
でもぽんさんの中では、あの出来事がずっと終わっていない。
おじさんが何者だったのか、なぜあんなことをしたのか、どうしたらよかったのか――その思考が何日もぐるぐる回っていた。
ぶつかられたことももちろんだけど、ぽんさんをそんなぐるぐるの渦に突き落としたことに対して、私は改めておじさんに対して腹を立てた。
ぽんさんの「ぐるぐる思考」
ぽんさんは、ADHDとASDの特性が両方あるタイプ。
中でもASDの傾向として、「一度気になったことを繰り返し考えてしまう」いわゆる「反芻(はんすう)思考」が強い。
たとえば、知らない人にされたちょっとした一言、職場でのちょっとした注意、道で人とぶつかったみたいな「よくあること」。
そういったことが、ぽんさんの心にひっかかると、延々と再生されてしまう。
考え続けてしまう。
そして、抜け出せなくなる。
抜け出せないことに対して自分を責める。
まるで負のスパイラルだ。
私はどちらかというと…
そんなぽんさんを見ていると、自分がすごく図太い人間になった気分になる。
でも実際は、私は仕事でミスをしたら凹むし、クレームが入ればそれなりに落ち込むし、ちょっとしたラッキーで上機嫌になったりもする――ごくごく普通の、よくいるタイプの人間だと思う。
だから、ぽんさんの「引きずり具合」には、正直びっくりすることも多い。
「いや、もうその話いいじゃん…」「いいかげん忘れなよ」って、言いたくなる時もある。
でもそれをそのまま口に出すのは、私の価値観の押しつけになってしまいかねない。
私にそのつもりはなくても、ぽんさんから見たらそう捉えられてしまうかもしれない。
だから私は、なるべく押しつけがましくならないように「そろそろ切り替えようか」とやさしく励ましたり、さりげなく話題を変えたりしている。
「気にしすぎ」じゃない
ぽんさんが考えていることは、「気にしすぎ」と一言で片付けられるようなものではないと思っている。
ぽんさん本人だって、「なんでこんなに気になるんだろう」「考えすぎてる自分が嫌だ」と自分を責めていたりする。
だからこそ私は、「気にしすぎだよ」ではなく、「そんなふうに感じたんだね」「それほど嫌だったんだね」と、できるだけそのまま受け止めたいと思っている。
繊細さの中にある優しさ
ぽんさんは繊細で、ぐるぐる思考で、ちょっとくよくよしすぎなところもある。
でも、それはきっと、物事を深く感じ取れる力と、まっすぐな優しさの裏返しなんだと思う。
あの日から今でも、ぽんさんはよく私の手を握ってくれる。
その手の中にある優しさを、大切にして生きていきたい。