違いと歩み寄り沈黙の裏にあるやさしさ――ASDの夫と私のすれ違いと歩み寄り

“空気が読めない”わけじゃなく、“読みすぎてしまう”ぽんさん

ASDの特性として、「人の表情や気持ちを読み取るのが苦手」「会話が一方通行になりやすい」「空気が読めない」といった傾向がよく挙げられる。
けれど、ぽんさんを見ていると、なんだか少し違う気がしている。

ぽんさんは、一言で言えば「人見知り」だ。
初対面の人や、あまり親しくない人との雑談はとても苦手。広げるのも難しい。
このあたりには、たしかにASDらしさを感じる。

でも、その根本の理由は「人の気持ちがわからないから」ではなさそうだ。
むしろ、ぽんさんは人の気持ちを“読みすぎる”のだと思う。

相手の表情や声のトーン、ちょっとした間の取り方さえも気にしてしまう。
何気ない会話で沈黙が訪れると、「今の言い方、よくなかったかな…」と気にしてしまう。
その日職場であった会話の違和感を、帰宅後も引きずって悩んでいることもある。

「そんなの気にしすぎじゃない?」と思う私が逆に鈍感すぎるのかもしれないと思わされるほど、ぽんさんはとても繊細だ。

ある日、私が何気なく「ふぅ〜」と伸びをしながら息を吐いたときのこと。
数秒後、ぽんさんが「なんでため息ついたの?」と聞いてきた。
私にとってはまったくの無意識だったけれど、ぽんさんには「二人きりになった直後にため息=何か不満があるのかも」と感じたらしい。
急いで「違うよ、ただの癖みたいなもん!」と誤解を解いた。

こうしたすれ違いは、私たちの間では少なくなかった。

すれ違いの原因は“沈黙”だった

以前のぽんさんは、私に対して「不機嫌そう」と感じても、その理由を聞かずに黙っていた。
私は私で、ぽんさんがなぜ黙っているのか分からず戸惑っていた。

まさに「触らぬ神に祟りなし」スタイルで黙るぽんさん。
すると今度は私が「なんで怒ってるの?」と聞きたくなる。
そして返ってくるのは「いや、怒ってないけど。不機嫌なのそっちでしょ」。

——「は?」「え?」という残念なすれ違い。
そんなやり取りを、何度も何度も繰り返した。

私は気づいた。「会話が足りないんだ」と。

思ってることをちゃんと言葉にしてくれないと分からない
黙ってないで、なんでもいいから話してくれ」とお願いした。
それに対してぽんさんは「言語化が難しい」と悩みながらも、少しずつ、ポツポツと自分の気持ちを伝えてくれるようになった。

たとえば、
ため息をつかれるのが嫌なこと
強い口調で言われると傷つくこと
ドアを強く閉める音が苦手なこと

そうした「苦手」を知って、私も無意識の行動を見直すようになった。
ため息をついてしまったら「今の気になった?」と声をかけたり、強く閉めたドアに「ごめん」と謝ったり。
逆に、私も「黙られるのがしんどい」と伝えるようにした。

ASDの“特徴”はあっても、“正解”はない

お互いが“嫌だと感じること”を、少しずつ減らしていけた。
歩み寄りと話し合い。あの頃から比べると、私たちは大きく変わったと思う。
ぽんさんはASDの傾向があるけれど、「空気が読めない」わけじゃない。
むしろ、相手を気遣うあまり、自分の言動を過剰に慎重に選んでしまう。
その優しさが、逆に生きづらさを生んでしまっているように思う。

誰かと話すときに口数が少ないのも、「人と話したくないから」ではなく、「誰かを不快にさせたくないから」。
「コミュニケーションが苦手」と一括りにされがちだけれど、その理由は人それぞれだ。

ASDには定義や診断基準があるけれど、それはあくまで“傾向”であって“正解”ではない。
人によって感じ方も反応もまったく違う。

風邪だって、ある人は咳が出るし、別の人は熱が出る。
全員が同じ症状になるわけじゃない。
ASDも、そんなふうに一人ひとり違って当然だと思う。

「その人自身」を見るということ

このブログでは「ADHD」や「ASD」という言葉を使っているけれど、
その言葉だけで人の本質を決めつけてしまうのは、もったいないことだと思う。

ADHDやASDの人の中には、優しさや共感力を強く持っている人もたくさんいる。
その背景にある特性を知ることは大事だけれど、やっぱりいちばん大切なのは「その人自身を見ること」なんじゃないかと思う。

ぽんさんは、ASDの傾向を持ちながら、とても繊細で、人を気遣える優しさを持っている。
たとえ“典型的なASD像”には当てはまらなくても、それがぽんさんという人の個性であり、大切な魅力だ。

特性を知ることも大事。
でもその人自身を知ろうとすることは、もっと大事なことだと思っている。