ASDの夫は「もらい泣き」しない。でも、私の涙に寄り添ってくれる

スポーツ観戦でよく泣く私

私はスポーツ観戦が好きだった。
オリンピックや甲子園など、特に自分の興味関心がある競技の大会にはいつも熱が入る

自分が直接関わっているわけでもないのに、選手たちが努力を重ねてきた背景や、家族とのエピソード、ケガを乗り越えた話なんかを知ると、それだけで胸がぎゅっとなってしまう。
スタートの瞬間から泣きそうになることも、結果がどうであれもらい泣きすることも多かった。

勝ったら勝ったで、「よかったねぇ……!」と涙。
負けたら負けたで、「ここまで頑張ったね……」と涙。
名前も知らないファンの、その大勢の人たちと心が一つになっている一体感もたまらなく好き。

ちょっと違う、隣のぽんさん

そんな私の隣にいるぽんさんは、少し違っていた。

一緒に試合を見ていても、ぽんさんが感情を大きく表に出すことは少なかった。
すごいプレーがあっても、「おおー」と静かに感心するくらい。
結果が出ても、「ふーん、そうかぁ」と落ち着いた反応だった。

私が「すごくない!?この子、中学のときに骨折して、でもそこから立ち直ってさ……!」と鼻息荒くエピソードを語っていても、ぽんさんはへぇ、そんなことがあったんだとゆっくり頷くだけだった。

温度差に、ちょっと戸惑った日々

正直、最初の頃は「ちょっと冷たいのかな?」と思ったこともあった。
せっかく一緒に見ているのに、なんだか温度差があるような気がして、少し寂しいような、もどかしいような気持ちになった。
だけどそんなことを言ったら「感動の押し売り」みたいになってしまう気がしてぐっとこらえる。

でも、そんなふうに感じていたのは、最初だけだった。

涙のそばにあった、静かな優しさ

泣いている私を見て、ぽんさんがからかってきたことは一度もない。
「また泣いてるの?」なんて言わず、そっとティッシュを差し出してくれる。
私が推しの選手について延々と話していても、途中で遮ったりせず、静かに耳を傾けてくれる。
大きく頷いたり相槌を打つわけではないけれど、ちゃんと全部聞いてくれている。

晩ごはんの時間だというのに、試合中継に夢中になっている時、ぽんさんは黙って晩ごはんの支度をしてくれる。
でも「テレビを消せ」とは言わない。
なんならご飯を食べながら、一緒に観れるようにするために準備をしてくれる。

そして、私が応援しているチームが勝って私が喜んでいると、嬉しそうに「よかったね」と言ってくれる。

ぽんさんは、自分が特別にその選手を応援しているわけじゃないし、「推し」というチームもない。
だけど、私が応援している「気持ち」を大事にしてくれている。
その温度差を埋めるように、自分なりの方法で寄り添ってくれている。

それに気がついたとき、私は「冷たい」どころか、むしろ「すごく優しい人なんだな」と思った。

感情を“もらわない”ぽんさんの特性

「もらい泣き」みたいな感情の連鎖があまりないのは、ぽんさんの特性でもあるのかもしれない。
ASD(自閉スペクトラム症)の傾向があるぽんさんは、誰かの感情に巻き込まれることがあまりない。
その代わり、出来事を客観的にとらえたり、状況を俯瞰してみる力に長けている。
特にぽんさんは、意識して俯瞰的に見るように心がけているように思う。

だから私が感極まって泣いていると、ぽんさんはちょっとびっくりしたような顔をして見つめていた。
でも、慣れてくると、「ああ、またおとまるが感動してるな」と思うようになったのだと思う。
それでも決して、その感情を邪魔するようなことはしない。

「わからないけど、大事にしてることなんだな」

「俺は泣かないけど、君がそう思うのはわかるよ」
そんなふうに、ぽんさんは自分と私の気持ちの「違い」を、否定せずに受け止めてくれているように感じる。

自分が感じないものを、相手が感じているとき、そこに距離や壁をつくるのではなく、「わからないけど、大事にしてることなんだな」と思えること。
それはもしかしたら「もらい泣き」よりもずっと深い共感のかたちかもしれない。

同じ場面を見ていても、心の動き方は人それぞれ。
私が泣いて、ぽんさんが泣かないその間にあるのは、壁じゃなくて、思いやりだった。

ちょっとした温度差さえ、優しさで満たされていく。