ASD特性の夫と“普通”に悩んだ日々

「分からなさ」が、ぽんさんを止めていた

ぽんさんは、人と話すのが嫌いなわけじゃない。
だけど、初対面の人とどう距離を縮めたらいいのかが分からない。話をどう広げたらいいかも、どう終わらせたらいいかも分からない。
その「分からなさ」が、ぽんさんにとっての大きな壁になっていた。

私自身も、実は初対面の人と話すのが得意なわけではない。
だけど、たとえば職場で新入社員がいたら「私から話しかけなきゃ」と思って行動する。
緊張していても、これまでの経験から「ある程度のやり方」を覚えているから、それをなぞるように会話ができる。
完璧にはできなくても、「自分からちゃんと話しかけた」「相手の緊張感を少しほぐせたかも」と思えることが、私にとっては自己嫌悪を減らしてくれる手段になっている。

だからぽんさんも、そういう「やり方」を覚えたら、少しは気が楽になるんじゃないか。
心の中で緊張したり不安を抱えたりしたままでも、「何かしてあげたかったのに何もできなかった」という無力感はなくなるんじゃないか。
そう思って、「場数を踏んだら慣れて楽になるんじゃない?」なんて言ってしまったこともある。
でも、ぽんさんにとってはそう簡単な話じゃなかった。

喋らないけど、ちゃんと見てる

喋らない。でも、相手のことはちゃんと見てる。
よく観察して、細かいところまで気付いている。
でも、その気付きをどう表現したらいいか分からないし、何より「失敗したくない」という思いが強くて、声をかける前に心が止まってしまう。

失敗を恐れて行動を躊躇していたら、人は何もできない。
それを体現するかのようなぽんさんの行動が、私にとってはもどかしい。

ぽんさんは、よく黙っていて無表情でいることが多い。
だから、第三者から見ると「楽しくなさそう」「冷たい人」に見えてしまうこともある。
楽しくなさそう」「冷たい人」に見えたら、周囲の人も話しかけるのをためらってしまう。

実際、そうやって誤解されている場面を何度も見てきた。
あいつちゃんとやってくれるけど何考えてるか分かんないから」と笑いながらイジられていたこともある。
そのたびに、私は心の中で「違うのに!」と叫んでいた。

「普通はそうするでしょ?」のズレ

「普通はそういう時、こう返すでしょ!」
ぽんさんの話を聞いて、そう言ったことがあった。
でも、ぽんさんの返事は「普通はそうするものなの?」だった。

私は世間一般的にそうするものだと思っていたけれど、ぽんさんにとってそれは普通ではなかった。
ぽんさんは「いわゆる”普通”がよく分からないから、おとまるの言うことが正しいんだと思う」と言う。
でもそうではなくて、互いが“普通”と感じるラインのすり合わせが必要だと思った。

たとえば友人と遊ぶ時、実家に帰省する時、ぽんさんは直前まで「〇日の〇時に行く」ということを決めない。
「何時に家出るの?」と聞いても、「気が向いたら」というくらい。
ちゃんとした時間を相手にも知らせていないのかと私はやきもきする。

ただ、それは相手も同じようで、「お昼ごはん食べたら連絡する」くらいのゆるさなので、そこは問題なさそうだった。
ぽんさんにとってはそれが「普通」で、相手もそのことを分かっているからこそ、問題なく約束が成り立っている。
だから私とぽんさんも、互いの「普通」を知った方が良いと思う。

伝えたいのに、できないだけだった

言葉にできなかっただけで、ぽんさんはぽんさんなりに相手の気持ちを受け取っていた。
ただ、どう返したらいいかが分からなかった。
そんなふうに、ずっと誤解されて生きてきたのだと思う。

ぽんさんは、自分がどうしたらもっと生きやすくなるか――を、あまり考えようとしない。
考えているかもしれないけど、行動には移さない。
そこに対して、私は正直、もどかしさを感じている。

「こうすれば少しは楽になるかもしれないよ?」「次にこんなことがあったらこうしてみたらどうかな?」と提案してしまう。
それに納得して「確かに!」と言ってくれるのにやろうとしないのに正直イラッとする。
だけど、それを押しつけることが正解ではないと分かっているから、いつも心の中で葛藤している。

分からない。けど分かり合いたい

ASDの特性って、「分かりやすい特徴」とは限らない。
ぽんさんのように、黙っていることで誤解されるタイプもいる。
本当は話したい。でも怖い。
本当は伝えたい。でもどうしたらいいか分からない。

それでも、私は一緒にいる中で少しずつ分かってきた。
そして、ぽんさんも、私の言葉や表情から学び取っている。
お互いに「分かり合えないまま」じゃなく、「分かり合おうとする関係」でありたい。

だから今日も、分からないなりに歩み寄っている。
一歩、また一歩と小さな歩幅で進んでいく。