多数派に合わせないASDの夫が守ろうとするもの

多数決が苦手な夫、ぽんさん

ぽんさんは、多数決があまり好きではない。
「みんながそう言ってるから、こっちにしよう」という考え方に、どうしても違和感を持ってしまうようだ。
本人いわく少数派だからって、その意見をなかったことにされる感じが嫌なんだよねとのこと。

ASD特性と”正しさ”へのこだわり

ASD(自閉スペクトラム症)の特性の一つとして、「正しさ」や「公正さ」への強いこだわりがある。
ぽんさんもその傾向があり、「筋が通っているか」「それはフェアか」といった軸で物事を判断することが多い。

だからこそ、「数が多い方が正しい」というロジックには納得がいかない。
むしろ、多数派に押し流されそうになっている少数派に目が向いてしまうのだろう。

“少数派”に重ねる自分自身

ただ、ぽんさんの場合、それだけではない気がしている。
彼は「少数派で立場の弱い人」を、どこか自分自身と重ねて見ているように感じる。

ぽんさんは、普段から「弱い立場の人」に寄り添おうとする。
5人で話していて、意見が4対1に分かれたとき、両者の意見についてぽんさん自身がどちらでもいいと感じたら、1人の方にあえてつく。
理由を尋ねると「誰も味方がいないのは可哀想だから」とぽつりと言ったことがあった。

その時、私は思わずぽかんとしてしまった。
でも、ぽんさんにとってはそれが当たり前の感覚なのだ。

それは、人に嫌われたくないとか、良い人に見られたいという表面的な動機から来ているわけではない。
ぽんさん自身が「少数派」である経験をしてきたからこそ、「誰の味方もいない状況」の苦しさを、想像ではなく実感として知っているのだと思う。

孤立した人に寄り添いたいという気持ち

だから、たとえその少数派の人が、周囲から見れば「ちょっと困った人」だったとしても、ぽんさんはその人の背景を見ようとする。以前にその人が良くしてくれたから、本当は悪い人じゃないから、不器用なだけで、迷惑をかけたいわけじゃないから。

そうやって、一見筋が通らないように見える人の言動にも、ちゃんと理由があるんだと信じようとする。
もしくは、何かしら理由をつけて、その人の味方になろうとする。

独りぼっちで立ち向かうのが辛い気持ちが分かるから。

不器用な優しさが、時に自分を追い込む

でも、ぽんさんのそのスタンスは、時に他の人たちからすれば「目障り」に映ることもある。
大きな派閥の中心人物のような、いわゆる「多数派」の人にあえて味方せずに立場の弱い人の味方をすることで、ぽんさん自身が冷たい目で見られることもある。
その派閥の周囲の人たちから無言の圧をかけられたり、やりづらさを感じたりする場面もある。

実際、職場でもそういうことが何度かあった。
周りとの温度差が激しくて、場を乱している人がいた。
みんながその人に距離を置くようになっても、ぽんさんだけは挨拶をしたり、ちょっとした雑談に応じたりする。

「あんな人に関わると面倒だよ」と言われても、「困ってるのかもしれないし」「そんなつもりじゃないのかもしれない」と、できるだけ中立であろうとする。
結果として、派閥の中心にいた人がぽんさんに対して苛立ち、その人に倣った周囲の人たちからも距離を取られることになった。

私はそれを見ていて、ぽんさんのことをとても優しいと思う反面、「なんでわざわざそんなリスクをとるのかな」と不思議にも思った。
「もっとうまいこと立ち回ればいいのに」とも。

でも、ぽんさんにとっては、それが「正しいこと」なのだろう。
周囲にどう思われるかよりも、「誰かが独りになっていないか」「困っているのに見過ごされていないか」という方が大事。
それがぽんさんの「基準」だ。

だからこそ、その優しさはとてもまっすぐで、ごまかしがきかない。
誰かを仲間外れにしたりバカにしたりして笑い合うようなことは絶対にしないし、味方がいない人を見かけたら、自分が一人でもそこに寄り添おうとする。
逆に言えば、それはぽんさんにとってできないことでもある。

もちろんそれは、決して生きやすいスタンスではない。
空気を読まずにいることで、自分が孤立することもある。
周囲の摩擦を避けて適当に立ち回る方が、よっぽど穏やかに過ごせる。

でも、ぽんさんはそれを選ばない。
不器用だけど、彼は自分の中の軸を大事にしている。

“誰も味方がいないのは可哀想”——その一言に宿るもの

誰も味方がいないのは可哀想だから
——その一言には、ぽんさんの生きづらさと、優しさの両方が詰まっている。
経験と痛みが詰まった言葉だ。

それでも、私はそんなぽんさんの姿勢を、少し羨ましく思うことさえある。
自分にはできない優しさを、まっすぐで小さな正義を、ぽんさんは迷わず貫こうとする。
その姿がとても強く、そしてあたたかく感じられるのだ。